●長安寺保育園として設立
■昭和22年2月1日 長安寺保育園として設立されました。勿論園長が生まれる前の話です。
初代園長は、現園長の父、玉木弁戒です。最初は長安寺に入って右の奥にある銅板葺きのお堂で保育を行いました。
この写真は昭和23年4月8日初めての
卒業式の日に、
そのお堂の前で撮影したものです。
卒業生55名(6名欠席)と先生2名、
そして真ん中に立っているのが
初代園長の玉木弁戒
です。
この卒業生の方たちは現在すでに60歳
を越えていらっしゃいます。
お堂は当時から銅板葺きでした。
でも、この後1度屋根の葺き替え工事を
行っています。
お堂の形はまったく変わっていません。
子どもたちの髪型や服装に時代を感じさせ
られますね。
■はじめてのお遊戯会の様子です。昭和23年
3月と日付が入っていました。当時は
「ひなまつり遊戯会」でしたので、ひなまつり
に近い3月に行っていたようです。
■現在も使用しているホールです。
当時はご覧のように、天井が張ってなくて、
太い梁がむき出しになっていました。
右袖舞台下で先生が弾いているのは
足踏みオルガンです。現在のエレクトーンと
同じ位置に置いてあります。
■昭和23年11月7日に在園生を集めて
写真を撮って います。後ろに見えるのが
久里浜中学校の旧校舎 です。この後新しい
木造校舎が建って、その校舎も 私が大学生の
頃に火災で焼失しましたから、
2代前の校舎ということになります。
■昭和25年10月15日に現在の幼稚園の運動場で初めての運動会を行いました。初代園長はかなりのカメラ好きで、私の記憶でも何かに付けりっぱなカメラをいつも持ち歩いていました。おかげさまでこんな写真もたくさんあります。
■後ろに見えているのは、現在の南園舎
です。
ご覧のように、当時は瓦葺きでした。その後
地震の心配から現在のトタン葺きに改造しま
した。
もともとは海軍の倉庫に使用していた
建物ですから、
梁はいかめつく、止めは
すべて太いボルトを使って
います。
屋根も軽くなりましたから、結果として
大変に
地震に 強いと思われる建物となり
ました。
■昭和26年2月25日の「ひなまつり遊戯会」
です。
題名は「斧ときこり」と記してありました。
■当時の先生と初代園長です。
右にいる男性は私の兄弟子にあたるかたで、
その後東京のお寺の住職になりました。
向かって左はじが私の母で、やはりこの頃
幼稚園の先生をしていました。
お腹が大きいのは、たぶん私がこの中に
いるんだと思います。
■久里中の運動会に頼まれて園児が出演した
時の様子です。昭和26年10月17日と書いて
あります。後ろに見えるのが久里中の
当時の校舎です。
■現在の交通公園のあたりにあったジャングル
ジムです。あらまあこんなにいっぱい乗っ
ちゃって
だいじょうぶなのかな?
■下は現在つつじがたくさん植わっている
あたりにあったブランコであそぶ子ども
たちです。
茂みの後方には長安寺があります。
(見えませんけどね)
■その長安寺の本堂です。
当時は茅葺きで、床が高く、夏は扇風機も
いらないほど 本当に涼しかったです。
幼稚園のバスはここに到着して、園児たちは
必ず本堂をおまいりしてから幼稚園に登園
していました。
■そして、ふたたび運動会です。
昭和27年10月5日に行われました。
後ろに見える家は、当時の1戸建ての
市営住宅です。
その向こうに見える2つの山が
1つは日向山です。
山と山をつなぐ稜線の部分の高さに
現在はハイランドがあります。
●宗教法人久里浜幼稚園として認可
■昭和28年1月31日に、宗教法人久里浜幼稚園として認可され、保育園から幼稚園と移行ました。
写真でご覧いただいたように、昭和23年よりは、お寺に隣接した2,000坪の土地を大蔵省より借り受け、日本軍の軍事倉庫として使われてきた現在の南園舎を園舎に改造して、ここに移っています。ちなみに現園長はこの時やっと1歳。私が生まれたお祝いに園児全員に紅白のおまんじゅうを配ったと父が話していました。
この続き時間を見て写真を貼り付けたりしながら、徐々に書き足していきます。なんせ古い写真には事欠きません。 |